過去の野外手帳 -2005年9月

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◆戸隠 秋の気配

もちろんマミジロキビタキを期待していたわけではないですけれど、なんとなく本日の行き先は戸隠。そして、もちろん「まさか」は起こらず。

サメビタキと、秋の気配が漂う森の雰囲気とが収穫でした。池にはコガモも来てました。ゴジュウカラが大騒ぎ。夏鳥が消えると、とたんに彼らの存在感が増しますね。
そうそう、キノコもたくさんあったので、またいつかアップします。

駐車場で野原よたろうさんと遭遇。実は園内で一度すれ違ったのですが、普段はネットのお付き合いで会うのも久しぶりとなれば「識別」に今ひとつ自信が持てず、二度目で相互確認と相成りました。消費税率引き上げ問題について激論を戦わせ(ウソ)、家路につきました。
2005年9月おわり記


◆峠へ
連休なのに、というより連休だから、ひと気のない藪の道。

写真左:短い間でしたが、ちょっとどきどきしながらササをかき分け踏み跡をたどりました。

写真右:車道に戻る直前は、こんな優しげな道。大好きな表情。
2005年9月おわり記



◆矢ガモ騒動を思い出した(バンディング論議周辺の違和感)
野鳥系サイトで、バンディング(野鳥を捕獲し足輪などの標識をつける調査)問題が取り上げられつつあります。科学的な成果を得られない(また得ようとしない)標識調査であるならば、これ以上鳥たちに負担をかけることやバンディングの制度を見直すべきだという主張です。
そうならば、その通りだと思います。詳しいことはここあたりを読んでみて下さい。
無駄に命を落とす鳥たちがいるなら、それはかわいそうなことだという感情を持つことは自然なことですし、その感情を根っこにバンディング批判を展開することは理解できます。

※なお、ここから先は本質的なバンディング問題やそれについての論議とは無関係です。

今でこそ税金で運用されている調査がこれでよいのかという趣旨が中心のようですが、最初は、かわいそう!小さな命を大切に!という論調ばかりでした。
そういう意見表明をいろいろなサイトやブログ、BBSで拝読するたびに、いがいがとしたものがのどに引っかかりました。

思い出すのは矢ガモ騒動。1993年2月6日の新聞切り抜きが手許に残っています。
見ると、石神井から不忍池に飛んできたオナガガモのメスの背中に、矢が刺さっている様子が写っています。痛々しいです。

カモの映像が連日報道されました。動物の虐待だ!あんなコトする人間は許せない!恐ろしい世の中になった!!と日本中が大騒ぎになりました。
でも、オナガガモは狩猟鳥です。撃って殺してもいいと認められている種類です。

1羽の矢ガモに日本中が「かわいそう!」と悲鳴をあげていた2月は狩猟期間。オナガガモに限らず、たくさんのカモ、鳥たち、獣たちが撃たれ殺されていたわけです。
以前から、ハンティングに対してあまりいい感情を持っていなかった私は、矢ガモ騒動のあまりの大きさに何を今更と変な憤りを感じたのでした。矢ガモの命を救えというのが世論なら、なぜカモの狩猟は「かわいそう!」「虐待だ!」「人間として許せない!」どころか、問題にさえならないのか。

報道も世の中の関心も、他の大多数のカモの命について深まっていくことはないように見えました。「かわいそう」って、こんなものなのだと思いました。憤りはハンターに対するものではなく、正義感の底の浅さへのものでした。

話をしたり、本を読んだりして考えました。かわいそうなことは何で、かわいそうじゃないことは何なのか。守るべき小さな命と、そうでもない命、その道徳的な価値観はどこから生まれてくるのか。

狩猟は小さな命をいたぶる心ない行為なのか。じゃあ釣りはどうなのか。釣り人は残酷な行為を楽しむ人たちなのか。
鯨はかわいそうだから食べてはいけないのか。馬刺を食べることを許せない人に、馬刺がうまいと思う私はどう説明すればいいのか。牛や豚や鶏はかわいそうじゃないのか。自分が殺さないだけじゃないのか。昔は鶏をひねって食べることは珍しいことではなかったろうに。
昆虫採集。害虫駆除。害虫?有害鳥獣。有害?
人、暮らし。
…そして、狩猟は、本当に心ない残酷な行為なのか。

結論は出ませんでした。人の考え方や生き方を否定するだけの、決定なものを見出すことはありませんでした。単純な線引きではくくれない、白黒つけられないものだということは、今でもぼんやりと考えています。

例えば、狩猟や釣りは自然との向き合い方なのだと思います。小さな命を大切にという道徳からは当然外れるものですが、だからといって反道徳的な行為と思う人は少ないでしょう。
野菜の収穫のためには害虫を殺さなければなりません。
人が生きていくとは、食に関わることはもちろん、ただ生きていくだけで他の生き物に「かわいそう」なことを強いることでもあると思います。
だから、せめて畑のオヒシバを抜くときにも、根っこの強さに驚ける(命を感じられる)人間でいたいです。そこは自覚的でありたい。

例えばバンディングの問題でも、それ以外のことでも「小さな命を大切に」という観点で論議をしていくのは、とても乱暴だと思います。
自然と人間との関わりはあまりにも複雑ではないですか。
私は鳥を見て、山に登り、自然にプレッシャーやインパクトを与えています。
本当に鳥や山岳環境を大事にするなら、出かけないことが最善です。鳥を見ること、山に登ること、生活すること、全てグレーゾーンです。
2005年9月おわり記(改題・一部加筆訂正してます)


◆チョウの命

ツリフネソウが競うように咲く山道を行きます。

アサギマダラの多い山でした。
山頂まで途絶えることなく姿を見ました。
羽ばたきと滑空を繰り返し、森の中を優雅に飛び回っているように見えましたが、アサギマダラは渡りをするチョウです。今は束の間の休息なのでしょう。
小さな体に秘められた力は、私の想像などきっと及ばぬ世界です。

山頂近くでぼろぼろのジャノメに会いました。命がけで生きるチョウ達。
地球は確実に公転を続け、季節は移っていきます。
2005年9月おわり記


◆今季初ジコボウ
見つけたのは2つだけ。
みなさんお休みで山に来て、出てたのはあらかた採られてしまったのか。
でも、他のキノコもあまり見かけなかったので、まだちょっと早かったのかもしれません。

同定に自信がないので、食べるのはこのジコボウだけにしていますが、キノコは食用・毒にかかわらず、見つけるだけで楽しいです。
鳥的にはややさびしい季節ですが、それを補って余りある秋の山歩きです。
2005年9月おわり記


◆秋の半日
シートを敷いて寝ころんで、タカの渡りを見ていました。はるか上空、南へ飛んでいく小さな小さなシルエットに、やはり心は震えます。
タカたちは南へ飛び、ジェット旅客機が何機か北へ飛んでいきました。

ポツリポツリと、1、2時間の間に10羽は飛んだでしょうか。数は少なかったものの、その分空の広さと高さを感じていました。

そろそろ帰ろうかと思ったとき、ミサゴが魚をつかんで飛んでいきました。魚の腹が秋の太陽を反射して光って見えました。
「すごいものを見たね」と言いながら、息子たちとその姿を見送りました。
2005年9月おわり記


◆霧中でキャッチボール
「明日は全般に雨でしょう」という予報をいつもなぜか信じてしまいます。そして安心して寝坊して、起きたら晴れてて後悔…の繰り返し。
朝が苦手で、雨ならば寝ていたいという気持ちが根っこにあるのです。

「晴れてるじゃん!」と天気予報を無条件に信じてしまった自分のふがいなさに腹を立てつつ、午後から隣村へ遊びに出かけました。気温19度、快適です。
でも標高850mくらいからは霧が濃く、そのうち雨も当たり始め、早々に撤収。天気予報がまるっきり外れたわけではありませんでした。

そろそろキノコが気になるシーズンですが、鳥山的にはやや低空飛行気味な秋の入り。
2005年9月はじめ記


◆鳥山絵葉書中間総括
「自分の宝物」について作文を書く課題が出て、そこに写真をつけるのだとのこと。小3の息子にせがまれ撮った一枚です。
今年になってどんどん行動範囲が広がっているのですが、このオオクワも友達と出かけて採ってきました。

子どもたちの間ではムシキングがはやっていますけど、あまり興味がないようです。本物がいいと言っています。
ただ、ムシキングは高いしねーとも言っているので、本当はほしいのに遠慮しているのかもしれません。

父親の影響なのか野鳥も好きで、鳥見に誘えばついてきますし、識別も少々できます。
でも、彼にとってはやっぱり昆虫が一番。これは上の息子も同じでした(今はスポーツに夢中ですけど)。

鳥は姿と声を見聞きするだけ。触っていじって実感できるという点で、特に子どもにとって昆虫が魅力的なのは自然なことです。
愛鳥教育という言葉があって、検索すると愛鳥モデル校なんてものもあるみたいです。
でも、鳥だけじゃなくてもいいのにって思ってしまいます。大事なのは鳥そのものではなくて、鳥をはじめとした生き物が暮らしている自然を知ることなのでしょうし。
鳥は手にとることができないし、鳥屋の息子でも鳥より虫の方がしっくり来るんです。

私は、ずっと鳥と山という窓口から自然を見てきました。
その思いを表現したくてこのサイトを開き、いろいろな方と交流ができました。世界が深まりました。サイトを運営してきてよかったと思っています。
そして、鳥や山以外の様々な視点を持っている方とも、たくさん巡り会うことができました。
視点は違っても、自然を思う気持ちは同じなんだと分かったことは、とても素敵なことでした。世界が広がりました。

これからも、私は鳥山を軸に自然の中を歩きます。
そして、息子たちには虫も鳥も自然も好きなまま、大人になってほしいと思っています。
2005年9月はじめ記


◆ガのすごさ
エコファーマーさんがガのページをアップされました。美しい種類が多く(本当にガが好きなら美しさにはさほど価値はないのでしょうが)、私も魅力的だと感じています。
このガは8月に撮ったものですが、ashさんの蛾飢道談話室で名前を教えてもらいました。「ノンネマイマイ」、ちょっと不思議な名前です。

不思議といえば、ガのシロートが図鑑をパラパラめくっていて一番不思議に思うことは、口吻が退化してしまっている種類が少なからずいることです。
さなぎから出てきた成虫は、一切の飲食?をしないということなのですね。

この仕組みは、繁殖するという目的に特化した結果と言えるでしょうし、ちょっと調べてみると、フユシャクなんかでは餌に依存しないですんだり、体液が凍るのを防いだりする意味があるようで、ガにとって合理的なのだということは理解できる気がします。

でも、そうなのか、何も食べず何も飲まずに生きていくのかと、頬杖をついて遠くの空を眺めてしまうのです。浮き世に住むは我が身なりけり。
2005年9月はじめ記

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