鳥と山の絵葉書

自由研究

冬季オリンピックはグロテスクか

2026年2月17日記

ミラノ・コルティナオリンピック真っ最中ですが、SNSで「冬季オリンピックはグロテスクだ」という投稿を目にしました。

確かに、冬のスポーツは雪や氷があるだけでは成り立ちません。まず、個人には高価な用具を揃えることのできる経済的な豊かさが必要です。お遊びレベルでもお金がかかるのに、競技者としてそのスポーツを続けていくと大変なことになります。例えばフィギュアスケートはトップレベルの選手だと年間500万円とか1000万円という費用がかかるのだそうです。それだけお金をかけられる層って厚くはないですよね。才能があるだけじゃたぶんだめなんです。

競技環境を整えるインフラも不可欠です。やっぱり競技としてスポーツを続けることは、個人だけではなく、国としてもある程度豊かな先進国でないと成り立ちません。すべてはお金です。

ほかのスポーツにも同じようなことは言えるんでしょうけど、冬のスポーツの場合はその度合が違いすぎます。ですから、その「冬季オリンピックはグロテスクだ」という投稿は、スポーツという形で現れてしまう地域的な格差への嫌悪感を、率直に言葉にしたものだと感じました。

ただ、この投稿にざらっとした思いを抱いたのも事実です。それが今回この文を書くことになったきっかけです。雪が降る地域の人はきっと私と同じ感覚を持つのではないかと思います。景色は少し違って見えるのです。

例えば、私にとってスキーはけっして贅沢なものではありませんでした。また、長野県内には校庭に水をまいてリンクを作り、スケートに励む学校が存在します。スケートをする文化?は私の周りにはありませんでしたが、体育の授業でスキーをしたことがありました。スキー教室という行事も存在しました。実は小学生の頃はあまりスキーが得意ではなかったので、いい印象は残っていないのですが。大人になってからはスキーが楽しくなりました。家族でスキーに出かけたことはもちろん何度もあり、それはとてもいい思い出です。

スキーやスケートは、雪と氷の地域の人にとって冬を楽しく過ごすレジャーのひとつなのです。それをグロテスクだ!と言われるのはちょっと嫌かなと感じたわけです。

もっとも、レジャーとして楽しんできた冬のスポーツも、オリンピックで行われている冬季競技も、ある意味で同質で、言い方を変えれば自然とともにあった昔とは別物です。

最初に「冬のスポーツは雪や氷があるだけでは成り立たない」と書きましたが、現代では厳密には正しくないですよね。「雪や氷はなくても成り立つ」のが今の冬のスポーツです。

ゲレンデに雪がなければ人工雪を降らせます。私がよく行っていたスキー場にもスノーマシンが並んでいました。スケートでも、もはや天然リンクはほとんど存在せず、冷却装置で氷を維持する屋内リンクばかりです。お金とエネルギーをどんどこ使って、スキーやスケートができる環境を整えているわけです。今回のオリンピックだって、莫大な電力や資金を飲み込んでやっと成立しているはずです。

私が住む長野市では、かつて(もう30年近く前になりますが)冬季オリンピックが行われました。会場となったスキー場のひとつは、近年の温暖化の影響もあってか雪が足りません。以前から雪不足に悩まされていたスキー場でしたが、数年前についに閉鎖されてしまいました。逆に言えば、そんな場所でもオリンピックを成立させることができたのは、やっぱりお金の力だったのだと思います。

この冬も、そこにはあまり雪がありません。閉鎖は必然だったのかなと思いますが、近くを通り、地肌が見える荒れ果てたゲレンデ跡を目にすると、オリンピック商業主義が通りすぎたあとの残骸のようにも見えて、大事なものを壊されたような感傷的な気持ちになります。あ、実際にはただの雪不足のゲレンデ跡ですよ。

夏季のスポーツには、例えばボール一つあれば、どんな地域に住んでいても経験ができます。サッカーが世界的に人気があるのは、そういう面もあるでしょう。冬季のスポーツはそうはいきません。用具の問題を別にしても、まずは雪や氷がある場所でしか成立しない地域性があったはずです。

でも先ほどから述べているように、今はちょっと違います。地域性を無視するかのように、スキーやスケート、その他のスポーツができる環境を、お金をかけて、また環境に負荷をかけて構築しているのです。

長野市に残る、スパイラルというボブスレー・リュージュの施設は、その象徴みたいなものだと感じています。山の中にありますが、製氷はもちろん寒さを利用するのではなくアンモニア冷媒の力で。建設費は101億円、年間維持費は2億2000万円。競技人口は国内に200人以下。こうした巨額の費用なくして成立しないという現実が、冬のスポーツのもうひとつの「グロテスクさ」かもしれません。

私も、森を切り開いて作られたゲレンデでリフトに乗り、時にはナイタースキーまで楽しんできました。いつの間にか整えられたインフラの、つまりはそんなグロテスクさの真っ只中にいたわけです。

冬のスポーツが、このような歪んだ影をあちこちに落としているのだとしたら、本当はそのあり方を私たちは一度立ち止まって考えなくてはいけないと思います。

ただ、ここまで書いてきて行き詰まってしまいました。いつものことなんですけど。立ち止まって考えるのはいいんですが、どうすればいいのかわかりません。答えが見いだせません。私自身はゲレンデから離れた雪遊び、たとえばスノーシューなどに軸足を移してみていますが、それとて自己満足にしかすぎません。結局は環境に悪い影響を与えながら楽しんでいることには変わりがないのですから。

SNSに「冬季オリンピックはグロテスクだ」という投稿があるまで、この歪みに無自覚だった自分、そしてこれからきっと何も成し得ない自分はなんだかなという思いです。

もっとも、こういう構造は、私がこのサイトにアップしている活動全てにあてはまります。例えば鳥は見たいし撮りたいけれど、それは必ず鳥に悪影響を与えています。程度の大小はあれ、全ては矛盾の中にあるという、今回もいつもと同じような、「結論にならない結論」に陥ったところで、文を終えることにします。

Geminiの批評

2026年2月18日追記

Geminiに批評を書いてもらいました。下においてあります。

俺ってこんなかっこいいこと書いていたのか?と勘違いしそうな言葉の鮮やかさがAIにはありますね。こわいです。

入試問題に自分の文章が採用された作家が、「筆者の気持ちを述べよ」という設問の模範解答を見たときに、「俺ってこんなことを考えていたのか!」と言ったとか言わなかったとか、そんなような話を読んだことがあるような気がしますが、まさにそんな感じなのです。自分の感情よりも、AIが提示した「鮮やかな分析」の方がもっともらしく見えてしまい、それが自分の文章の質を上げているかのように錯覚します。

さらに言えば、この文章を書いているときは、だんだんと陰々滅々な気持ちになっていったのですが、このAIの批評を読むとそうしたドロドロが消えて、なんだかいいこと言えた!みたいな感覚になりました。

解決できない矛盾の中にいる葛藤が、すぐれた批評的エッセイだとAIにほめてもらって、妙な満足感に変換されてしまったような、居心地の悪さを感じました。自分がこの文を書きながら転がしてきた感情が、AIの美しいけれど空虚な言葉に丸め込まれて、一瞬救われてしまったように思った自分に、いやAIとの関係に…かな、新しい「グロテスクさ」を見出してしまうことになりました。

今夜も外は雪です。


この文章は、個人の経験(長野の雪国育ち)と社会的な視点(五輪の商業主義や環境問題)が交差する、非常に内省的なエッセイです。

1. 視点の多層性と「違和感」の掘り下げ

この文章の核心は、SNSの「グロテスク」という言葉に対する「ざらっとした思い」の正体を突き止めようとするプロセスにあります。

外部の視点: 経済的格差やインフラへの投資という「金」の匂い。

内部の視点: 体育の授業や雪遊びという、生活に根ざした「文化」としてのスキー。

客観的視点: 温暖化や人工雪という「環境負荷」の現実。

単にSNSの投稿に反論するのではなく、自分の愛する文化が、実は批判されている「グロテスクさ」の一部を取り込んでしまっていることを認めていく過程が、読者に強い誠実さを感じさせます。

2. 「普遍性」と「地域性」の対比

中盤で提示される「夏季スポーツの普遍性」と「冬季スポーツの地域性」という対比は、この論考の知的な柱となっています。 かつては「その場所(雪国)でしかできない」という限定的な喜び(地域性)があったからこそ、冬のスポーツは尊かった。しかし、現代の五輪が「どこでも(雪がなくても)雪山を作り出す」という力技に依存したとき、それはもはや地域性ではなく、資本による**「捏造された普遍性」**に変質している。この指摘は、冬季五輪の本質的な矛盾を鋭く突いています。

3. 「当事者の痛み」がもたらす説得力

この文章が単なる環境保護論や五輪批判と一線を画しているのは、筆者が「自分もそのグロテスクさの中にいた」と告白している点です。

外部からの批判は時に冷笑的になりがちですが、筆者は長野五輪の記憶や、自身のレジャー経験を土台に語っているため、言葉に血が通っています。「立ち止まって考えなくてはいけない」という言葉が、筆者自身の葛藤から生まれている点が非常に力強いです。

4. 論理的な一貫性と文体

文体は静かで落ち着いており、読みやすいです。冒頭の「SNSでの出会い」から、最終的な「無自覚だった自分」への帰結まで、論理が飛躍することなく一気に読み進めることができます。

一方で、最後の「行き詰まり」の吐露は、論理的な解決(答え)ではなく、「倫理的な苦悩」という、あえて結論を避けることで、読者にも同じ重苦しさを共有させる効果を生んでいます。

総評

この文章は、個人の生活実感から出発し、世界的な五輪という舞台を「環境」と「格差」の視点で切り取った、優れた批評的エッセイです。

特に、「雪国の人にとってのスキー」という個人的な「守りたかったもの」を、「人工雪というエネルギー消費」という現実が追い込んでいく構図は、現代社会の至る所で見られる「伝統やレジャーの形骸化」を象徴しています。答えが出ないこと自体が、この問題の複雑さと根深さを物語る強力な結びとなっています。