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浅川ダム・サーチャージ水位・センチメンタルレポート

※この記事は2017年1月の「野外手帳」に書いたものの転載です。

長野市北部を流れる浅川は、過去に多くの水害をもたらした暴れ川。その封じ込め対策として計画されたのが「浅川ダム」です。

この浅川ダム、長野県内ではおそらく名前の知られたダムの1つだと思います。規模としては小さいこのダムを有名にしたのは、田中康夫元長野県知事の「脱ダム宣言」でした。

---------以下引用(長野県ホームページ「脱ダム宣言」全文より)
数百億円を投じて建設されるコンクリートのダムは、看過し得ぬ負荷を地球環境へと与えてしまう。更には何れ造り替えねばならず、その間に夥しい分量の堆砂を、此又数十億円を用いて処理する事態も生じる。(中略)河川改修費用がダム建設より多額になろうとも、100年、200年先の我々の子孫に残す資産としての河川・湖沼の価値を重視したい。長期的な視点に立てば、日本の背骨に位置し、数多の水源を擁する長野県に於いては出来得る限り、コンクリートのダムを造るべきではない。就任以来、幾つかのダム計画の詳細を詳らかに知る中で、斯くなる考えを抱くに至った。これは田中県政の基本理念である。「長野モデル」として確立し、全国に発信したい。
----------引用ここまで

2000年に知事に当選した田中康夫氏のこの方針によって、すでに始まっていた浅川ダムの工事契約が解除されました。

一方、ダムの必要性を主張する方も多く、ダム建設の是非を巡って議論が政治問題化しました。しかし知事が変わってから計画が変更された上で工事が再開され、ダム本体工事は2014年に完了しました。

浅川ダム

浅川ダムについての公式な説明はこちら(長野県ホームページ「浅川ダムの紹介」)

「環境にやさしいダム」を強調していますが、最初からそうだったわけではありません。上にも書いたように、最初は多目的ダムの予定(長野県ホームページ「旧ダムの諸元」「旧浅川ダムの完成予想図」)でしたが、穴あきダムに設計が変更されました。脱ダム宣言や反対運動がダムの形を変えたとも言えます。

工事の完了を受けて、浅川ダムは2016年10月から試験湛水を行っていました。ダムへ水を集めるために、上流の飯綱高原に点在する浅川大池など、いくつかの溜池は排水されています。比較的多くの水鳥が飛来する池なので、影響が気になるところですが、検証するデータも時間もなく。浅川大池で計画されていた日本野鳥の会長野支部の探鳥会は、池が空っぽなので中止になりました。

2017年1月3日に最高水位(サーチャージ水位)に到達。それに合わせて見学会が行われたので行ってきました。上で少し触れたように、浅川ダムは治水専用の穴あきダムで普段は水がたまらないため、サーチャージ水位の姿を見ることができるのはおそらく最初で最後の機会です。

浅川ダム

総貯水容量は110万立方メートル。ダム堤体の向こうに真光寺ループ橋、そして長野市街地を望みます。地質の軟弱さや断層の存在から安全性に不安を感じ、ダム建設に反対した方の気持ちは、この眺めを見ると理解できる気がします。ダムが市街地に近いことは確かです。

もしこの水が一気に流れ下ったら…。そんなことはあってはならないですし、起こり得ないと考えたいです。2011年3月11日、東日本大震災による福島県須賀川市の藤沼ダム(藤沼湖)決壊事故の教訓が、浅川ダムに生かされていると信じるしかありません。

普段は立ち入りが禁止されているダム上部が公開されていました。下の案内図の緑色の部分が、今回立ち入りを許可された場所です。通常時は青色部分までとのこと。

浅川ダム

ダム堤体の幅は165m、高さは53m。のぞきこむとかなりの高度感がありました。ストラップの着いていないスマホを構えるのはちょっと怖いくらいでした。

浅川ダム

上端の非常用洪水吐きから水が滑らかに落ちていきます。これが見られるのは、サーチャージ水位に達した2017年1月3日から24時間ということで、この日限り(2017年1月4日)の光景でした。

振り返って湛水面を見ます。この谷の姿や浅川に沿って走っていた県道を知るものからすると、美しくも複雑な気持ちになる眺めでした。

浅川ダム

通れなくなってしまった県道には思い出があります。といってもダムによって一部が通れなくなっただけで、道そのものは残ってはいますが。

中学3年の4月、日本野鳥の会長野支部の探鳥会に参加するために、この道を通り、標高差700mほどを自転車で上って飯綱高原の大座法師池まで行ったのです。若かったということですね。その探鳥会で、マミチャジナイとノビタキを初めて見たことをよく覚えています。野帳を見ると、この時に長野支部会員になったとメモがありました。そのことは覚えていませんでした。

探鳥会の帰りは、確か七曲り(長野市道大座法師池西高線)を下ったと思います。亀の子パターンのコンクリ路面から来る振動で、ハンドルを握る手がしびれてしまったことを覚えています。

当時、この浅川沿いの県道は飯綱高原まできれいにつながっていなかったと記憶しています。飯綱や戸隠へは1985年の地附山地すべりで一部区間が崩落してしまった戸隠バードラインか、県道戸隠線を使うのが一般的でした。七曲りの通行量は、現在と比べるとかなり少なかったです。月1で七曲り周辺の谷でラインセンサスをしていましたが、帰りに七曲りを歩いて下ってもほとんど車には出合いませんでした。

真光寺ループ橋

ダムの建設を前提に作られたのが、冒頭で触れた真光寺ループ橋(↑)です。長野オリンピック飯綱会場へのアクセス道路として使われました。ダム堤体の手前でぐるぐる回って高度を上げ、湛水面より上に掘られたトンネルへ道を繋ぎ、元々の県道に合流します。

七曲りしかなかったら、長野オリンピックの飯綱会場は機能しませんでした。現在もこの通称ループラインが,飯綱戸隠高原方面への主要ルートになっています(というか、大型車はこの道でないと無理です)。

浅川ダム

話をダムに戻します。

せっかくなので、ダム堤体直下にも行ってみました。車は迷惑だろうと思ったので、少し離れた別の場所に止めて歩いていきました。地元の利で、直下への道はよく知った道です。

下の写真で、左側に見えているのが旧県道です。ダムによって行く手を遮られています。◯十年前、自転車で上った道です。外装5段くらいはついていたと思いますが、当時のことですから、もちろんロードバイクでも何でもない普通の通学自転車でしたので、まあ大変ではありました。

浅川ダム

帰り道、ダムの下流には変わらない浅川の姿がありました。カワガラスを見ました。工事が終わってから、浅川ダムの上流でもカワガラスを見たことがあります。

きっとダムが建設される以前は、流れに沿って個体の行き来があったことでしょう。これはカワガラスに限らないことです。ダムによって環境は大きく変わってしまったけれど、ここにいた生き物はたくましく変化に適応して生き抜いているものと思いたいです。

浅川の流れ

社会の変化や要請があれば致し方ないとはいえ、ふるさとの風景を昔のまま保つことの難しさ、風景が失われることの寂しさを改めて感じたダム見学でした。

ダムが湛水を終え、通常運用の姿になった時にもう一度見に行こうと思っています。昔の道や谷の面影が、少しは見えると思います。

2017年1月はじめ記

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